日本航空123便の陰謀論はなぜ蔓延するのか(前編) /事故の概要と救助活動

私はナショナルジオグラフィックの番組「メーデー!:航空機事故の真実と真相」が好きで、よく見ています。これは実際に起こった航空事故とその原因を追う番組で、2003年から22シーズンも続いている人気番組です。原因究明のアプローチが私の仕事に似ている部分もあって、放送されているとついつい見てしまうのです。この番組が好きだと言うと、御巣鷹山に墜落した日本航空123便の墜落事故の話をする人がいるのですが、荒唐無稽な陰謀論を話す人が後を絶ちません。今回は日本航空123便の陰謀論と、なぜこのような陰謀論が流行るのかを考えてみたいと思います。
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Contents
日本航空123便の事故の概要
墜落
1985年8月12日、羽田空港を18:12に出発した日本航空123便は、伊丹空港に向かっていました。18:24頃に伊豆半島上空に差し掛かったところで爆発音が発生し、客室内は一瞬ですが霧のようなものが発生しました。機長はすぐさま緊急事態を知らせるスコーク7700を発し、羽田空港への帰還を決定しています。機長は羽田管制(東京ACC)や東京アプローチ(東京APC)、さらには米軍横田基地と連絡をとりつつ羽田に向かおうとしますが、やがて機体は操縦不能に陥ります。そして18:56頃、群馬県の御巣鷹山に墜落しました。
救出活動
18:26頃に123便のスコーク7700を受信した千葉県愛宕山の航空自衛隊(中部航空警戒管制団)は、123便をレーダーで追尾しています。18:56に123便がレーダーから消えたため、中部航空方面隊司令部が2機の戦闘機(F-4EJファントム)をスクランブル発進させています。一方、羽田空港の東京救難調整本部は、18:59に123便がレーダーから消失したとの連絡を受け、防衛庁、消防庁、警察庁、海上保安庁に連絡して123便の捜索を開始しました。
一方、在日米軍は横田基地に帰投中のC-130輸送機にレーダー消失ポイントに向かうように指示を出しました。付近の山中で火災現場を発見し、横田基地に連絡しています。そして19:54に航空自衛隊百里基地所属の救難隊が現場に向けてヘリで発進しています。災害派遣要請は来ておらず、自衛隊独断での出動でした。20:42頃に現場に到着しまし、降下が可能なポイントを探しますがアプローチできる場所が見つかりませんでした。その後も継続して降下ポイントを探し続けますが、暗闇に黒煙が立ち込めており電線の有無もわからず降下ができません。

深夜1:00過ぎに入間基地から派遣されたヘリも到着しますが、状況が変わらず降下することができないままでした。そのため生存者がいるか空からの監視を続け、降下は日の出とともに行うことになりました。一方、地上からの救助隊も闇夜のため場所の特定に時間がかかり、さらに険しい山に移動にも手間取っていました。さらに匿名の通報で「墜落したのは長野県北相木村のぶどう峠付近」とあり、さらに日本航空広報部が「墜落現場は長野県南佐久郡 御座山北斜面」と発表するなど、見当違いの情報に現場は混乱します。その結果、地上の救援隊が到着できたのは墜落から14時間、災害派遣要請から11時間30分後の朝9:00でした。

一方、空からの救助隊は朝4:30から現場の確認を再開し、8:30から長野県警の機動隊員が降下を開始しました。9:00に到着した地上部隊とともに生存者の確認を行います。その映像をテレビで見た上野村の村長がスゲノ沢付近であることに気づき、地元の消防団に道案内をするように依頼しました。その結果、群馬県警と警視庁の機動隊や消防の救助隊、地元消防団が現場に到着して大規模な捜索活動が開始されます。そして10:50頃に地元の消防団が4名の生存者を発見しました。生存者はこの4名だけで、乗客乗員520名の死亡が確認されました。
事故の原因調査
事故が発生した8月12日の20:00過ぎに、航空事故調査委員会のメンバーに招集がかかりました。この調査委員会には、事故を起こした機体がボーイング社のものだったため、アメリカのNTSB(国家運輸安全委員会)からも調査団が派遣されています。ブラックボックスの回収と機体部品の回収を行い、彼らは8月22日の時点で圧力隔壁の修理ミスによる金属疲労の仮説を立てています。

その後、破壊検査やコンピューターによる解析、さらにフライトシュミレーターによる実験を繰り返し、1987年6月に調査報告書が公表されました。この事故は、過去に起こした尻もち事故の際の修理に不備があり、気圧によって機体後部の圧力隔壁が壊れ、垂直尾翼や油圧系統を損傷したために起こったと結論づけられました。この調査報告書を元にいくつもの勧告が出され、FAA(アメリカ連邦航空局)に改善勧告が出されています。
残った多くの疑惑
圧力隔壁は破壊されたのか
調査報告書では圧力隔壁が金属疲労によって破損し、客室内の空気が一気に吹き出して天井や垂直尾翼を破壊することになったとしています。しかし事故発生当時の高度は23,900フィート(7,285m)で、この高度で客室内の空気が外部に吹き出すと急減圧が発生するはずです。鼓膜が破れるなどの症状が出るはずですが、ボイスレコーダーにはそのような様子は記録されていませんし、生存者の証言にもそのようなものはありません。本当に圧力隔壁が破壊されたのか?という疑問が出ました。

墜落から救助作業開始が14時間後だった
墜落した場所は特定されていたはずですが、どこに墜落したのかわからなかったという理由で、救助作業が始まったのは14時間後の翌日の9:00からでした。レーダーもトランスポンダもあるのに、墜落場所が特定できないなんてあり得ないという疑問が出ました。生存者の証言から、墜落直後にはあちこちからうめき声が聞こえており、複数の生存者がいたはずです。夜の間に救助活動を開始できていれば、救われた命はもっと多かったはずです。
墜落現場が立ち入り禁止になった
墜落現場が特定された後に、墜落現場は立ち入り禁止になりました。そのため一部の新聞社は警察などに見つからないように山に入り、墜落現場を報道しました。報道陣を締め出して立ち入り禁止にしたことで、何か見られてはまずいものがあったのではないかと言う人がいます。それらを撤去するまで報道陣を締め出し、証拠を隠滅できてから立ち入り禁止を解いたのではないかと言われています。

遺体の燃焼が激しすぎた
遺体の鑑定をした医師の証言として、通常では考えられないほど遺体が燃えて炭化いたそうです。現場はガソリンとタールを混ぜたような匂いがしていたそうで、ジェット燃料とは全く別のものだったようです。そこから証拠を隠滅するために火炎放射器(ガソリンとタールの混合燃料を使う)で、証拠を隠滅したのではないかと言う人達がいます。
機長はなぜ横田基地に着陸しなかったのか
横田基地は123便を受け入れると伝えていました。123便にとって最も近い空港で、かなり近くまで接近しているのですが、なぜか逆方向に舵を切って横田基地から離れていきました。なぜ横田基地に着陸せず群馬方面に飛んだのか?横田基地に着陸できない理由があったのかと疑問を投げかける人達がいます。

なぜ安全な海ではなく山の方に旋回したのか
いわゆる海山論争と呼ばれるもので、不時着しても安全な海の方ではなく山の方に行ってしまったことが議論になっています。羽田に戻ることを伝えた際に、管制官が右に旋回するか左に旋回するかを尋ね、機長は右だと答えています。この時に左に旋回すれば太平洋に出ていたので、安全な海に出られました。これは機長のミスなのではないかと言われています。
2009年のニューヨークで、エンジンが停止したUSエアウェイズ1549便がハドソン川に不時着した際に、この議論が再燃しました。この事故では不時着したのがハドソン川でなければ大惨事になっていたため、123便も左旋回すれば海に出て助かった可能性があると言う人達がいます。
陰謀論は次回で
今回は事故の概要と疑惑と言われた内容を書いてみました。ここから陰謀論になるのですが、それは長くなったので次回に書きたいと思います。