体罰は仕方ないという歪み /過去を活かせない議論の無意味さ

学校でのトラブルに対して、ある程度の体罰は仕方ないのではないか?という意見を耳にすることがあります。しかし今さら体罰を容認するのは時代が許しませんし、過去の悲惨な事件事故から体罰が批判されるようになった歴史があります。今回は体罰について書いてみたいと思います。
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体罰とはなにか
体罰の定義は1948年の法務長官通達で「身体に対する侵害、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒」とされています。この定義が長年使われてきました。ただし文部科学省は体罰について「機械的定義はできない」とし「諸条件を総合的に考え、個々の事案ごとに判断する必要がある。」としているため、議論になることがあります。
学校での体罰は法律で禁じられている
学校での体罰の是非が問題になることがありますが、私にはこの議論の意味がわかりません。なぜなら学校教育法第11条で、体罰は明確に禁止されているからです。法改正して体罰を認めさせるか否かを議論するならわかりますが、法で禁じられていることを仕方ないのか絶対にダメなのかと議論しても意味がないのです。ちなみに法文は以下のようになっています。
第十一条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。 ただし、体罰を加えることはできない。
これは明治時代に学校制度が導入されてから一貫して変わっておらず、学校が作られてからずっと体罰は禁止されています。さらに明治初期の頃は武士家系の子供が多かったため、体罰は教師にとっても命懸けでした。恥の文化がある武士の子供です。人前で叱責されて叩かれでもしたら、公衆の面前で恥をかかされたと職員室に日本刀持参で決闘を申し込む生徒や親がいたようです。
いつから体罰が行われるようになったか
正確なことはわかりませんが、学校で体罰が公然と行われるようになったのは、日露戦争の後からだと思います。日露戦争は日本の実質的な勝利に終わりましたが、ポーツマス条約により賠償金をもらえなかったことに国民は激怒し、野党議員を中心に講和条約破棄のデモが起こりました。このデモは暴徒化して内務大臣官邸が日本刀で襲われ、交番や警察署が破壊されました。日比谷焼き討ち事件として記録されたこの事件は、17名の死者と500名以上の負傷者を出しています。

こうした混乱を残した日露戦争でしたが、軍隊にも大きな課題を残しました。その一つに兵隊の敵前逃亡があります。恐怖に駆られて逃げ出す兵隊が少なからずいたため、敵兵に特攻する兵隊は賞賛を浴びて兵隊の手本とされました。そして軍隊の演習も激しさを増していき、軍隊のスパルタ化が進んでいきます。そしてその影響は、学校にも及んだでしょう。学校は集団生活を学ぶ場になっていましたが、これは優れた工場労働者や軍人を生み出す場でもあったからです。そしてこの頃になると農村出身の学生が多かったため、大勢の前で叱りつけても日本刀を持って現れるなんてこともなかったと思います。私の予想でしかありませんが、学校の体罰は日露戦争後に広がったと思います。
いつから体罰が問題視されるようになったのか
昭和56年の警察白書には「昭和26、39年に続いて、現在は、戦後第3のピーク形成期にある」と書かれています。俳優の穂積隆信が娘の非行を書いたノンフィクション「積木くずし」がベストセラーになったのがその翌年ですから、当時の社会的関心の高さが窺えると思います。私は小学生でしたが夜間のゲームセンターなど論外で、昼間であっても遊技場に行くことは非行に繋がるとして禁止されていました。

そしてこの頃は、教師の体罰が容認されるというより賞賛される風潮がありました。私が住んでいた近所の高校では、腱鞘炎になるまで生徒を殴り続けた教師が学校を非行から救ったと英雄視されていましたし、私が行った中学校では数人の生徒が鉄棒にぶら下がり、体育教師が竹刀で足を叩いていました。この教師も熱心な先生として評判が良かった記憶があります。しかしこのような過度な体罰は、事件を引き起こしました。体罰が引き金になった事故や事件、そして悲劇が発生したため80年代後半には体罰の禁止を求める声が高まることになります。それらの事件をいくつか紹介したいと思います。
水戸五中事件
1976年、学校で行われた体力測定の際にK教諭(40歳女性)が、補助員としてついたA君に呼び捨てにされたと激昂し、A君の頭部を十数回殴打しました。A君は体調を崩して8日後に脳内出血で死亡しました。A君の遺族は裁判を起こしますが、Kは殴打は教育の一環だっと無罪を主張しました。一審ではKの過失が認められましたが、1981年に開かれた二審では逆転無罪となりました。この判決は「行過ぎた体罰」に対する警鐘になりましたが、適切な体罰なら許されるという考えが定着したとも言えました。
岐阜県中津商業高校事件
陸上部に所属する女子生徒Aさんは国体出場経験もある生徒でしたが、顧問Yに半年間に渡って素手や竹刀で叩かれる暴行を受けていました。成績が悪いと長時間に渡って正座をさせられ、竹の棒が割れるまで頭を叩かれたこともあったようです。Aさんは叩くのをやめて欲しいと訴えたこともありますが、Yは厳しい指導から好成績が生まれると正座と暴行を止めませんでした。母親にYからの暴行を訴え家出をしたりしますが、Yから5時間に渡り叱責された後に、帰宅したAさんは自宅で首を吊って自殺しました。1985年3月のことでした。
Aさんの葬儀で「何か言うことはないのか」と遺族に問い詰められたYは「バカか」「死人に口なし」と切り捨て、同僚には「あいつは殴り心地が良かった」と語っていたそうです。Yは教育委員会により減給処分になりますが、遺族は不服として裁判を起こしました。一貫して教育のためだったとYと学校は主張しましたが、地裁は違法行為があったとして岐阜県に300万円の支払いを命じました。
岐阜県立岐陽高校事件
1985年5月に科学万博の研修旅行に出かけた2年生の生徒が、禁止されていたヘアドライヤーを持ち込んでいたことで、教師に殴られてショック死した事件です。平手で数回顔を殴られ、さらに蹴られて頭を壁にぶつけています。立ちあがろうとしたところを再び蹴られて頭を壁にぶつけました。生徒が謝罪しているところを腹を踏みつけたあたりで様子がおかしくなり、病院に運ばれましたが急性循環不全により死亡しました。
生徒が死亡すると刑事事件として捜査が行われ、体罰を行った担任は生涯致傷罪で懲役3年の実刑判決が下されています。葬儀にはメディアが大挙して取材に訪れ、生徒達が弔問に訪れた校長と教頭に迫ってテレビカメラの前で謝罪をさせるなど混沌とした映像が放送されています。
体罰に対する考え方の変化
教師の体罰が世間から容認された理由の1つが、70年代後半から生徒の教師への暴力が頻発したことです。非行に走った生徒らが集団で教師に暴行を働く事件が報じられると、教師が一定の暴力を行使するのは止むを得ないと思われたのです。また上記の事件でも教師だけが悪いのか?という風潮もありました。岐阜県中津商業高校事件では、女子生徒のAさんが教諭Yの激しい叱責に舌を噛んで耐えたと紫色に変色した舌を母に見せて話していたこと、自殺の可能性もある家出をした後で再び叱責されれば自殺する可能性があることを教諭Yも遺族も予見できたのではないかと言われました。このことは判決文にも書かれています。
また岐阜県立岐陽高校事件では、体罰を加えた教師は普段は体罰を行わない教師でした。しかし体罰が日常的に行われる校風の中で、他の教師から暗に暴行するように言われて「自分もやらなければ」と体罰に走って死亡事故に繋がりました。この事件は世間の大きな注目を浴びました。岐阜県立岐陽高校では校内秩序を維持するために教師が体罰を日常的に行っており、こうした校風が生徒の命を奪うことが問題視されることになりました。そして1994年に「子どもの権利条約」が推進されると、いかなる体罰も暴力であり生徒の人権を侵害しているという風潮に変わっていきました。
教員に対抗手段がないのが問題
死亡事故まで起こって体罰禁止の風潮が高まったにも関わらず、今も教師の体罰に肯定的な声があるのは教師に対抗手段がないからでしょう。2019年に町田市の高校で、教師が生徒を殴る場面が撮影されてSNSで拡散されました。これは一部の不良グループが執拗に教師を挑発し、意図的に殴らせてSNSで拡散させれば教師がクビになると考えて仕掛けたもので、その経緯が明らかになると生徒達が激しい批判に晒されました。

問題なのは意図的に授業を妨害する生徒に対しても停学などの措置を取るのが難しく、問題がある生徒に対して口頭で注意するぐらいしかできないことのようです。なぜ認められている懲戒ができないのか分かりませんが、もしかすると過去に行われていた体罰は数少ない教諭の対抗手段だったのかもしれません。アメリカのようなスクールポリス制度も日本では難しいとのことですが、授業を妨害したらい教師に威圧的に出る生徒への対抗手段が必要ではないかと思います。
愛情のある体罰は仕方ないのか
いまだに体罰と暴力の違いは生徒への愛情があるかどうかだという意見が出ることもあります。しかしここまで書いてきたように、80年代に教師の体罰はある程度仕方ないという認識の元で、体罰による死亡事件が起こったことから体罰を禁止にする流れができたのです。それを忘れて「昔は体罰なんて当たり前だった」と言うのは、過去の経験と教訓を無駄にしているように思います。愛情のある体罰は仕方ないといって体罰を認めた結果が、多発した事故なのです。
まとめ
学校での体罰は学校制度が始まった時から法律で禁止されており、それは今も変わりません。明治の頃には軍人を育てる目的で、戦後は生徒からの暴力に対する教師の手段として暴力的な体罰が容認されてきました。しかし80年代に体罰による死亡事故や自殺が相次ぎ、体罰は絶対にダメだという世論が形成されました。そのため今さら体罰を容認する意見は、時代を逆行するものだと思います。体罰なしでも体罰ありでも問題が発生する現状を考えると、すでに体罰どうこうではなく学校教育そのものを見返す時期なのかもしれないと思います。

